
- 作者: スティーブン・R.コヴィー,Stephen R. Covey,ジェームススキナー,川西茂
- 出版社/メーカー: キングベアー出版
- 発売日: 1996/12/25
- メディア: 単行本
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しばらく間が空いてしまったが、忘れているわけじゃない。まだ第二の習慣の途中で、いつになったら終わるのか分からないけど。
今回はミッションステートメントの話に少し触れたい。
著者は「全てのものは二度作られる」と言い、人生にもあたかも青写真が必要な言い方をしている。僕はこの考え方には賛同できない。人生一寸先は闇であり、青写真なんてあるわけがない。
仮に著者の言うとおりに自分自身の価値を決めて、それを一つの青写真としたとして、そういう人生になる保証がどこにあるのか誰が分かるのか?間違った到達点に梯子をかけると、梯子を上る努力は無駄になるという比喩も出していたが、その到達点が最初からわかるものかね?
著者はその到達点を定める一つの方法として、ミッションステートメントを書けという。そしてそれが一つの人生における青写真となり、いわゆるprincipleとして機能するという。
その際に何を中心に置くかについてもかなりのエネルギーで解説しているが、僕にはつまらない例の連続で、結局はミッションステートメントを書き、それをセンターにしろということで落ち着く。
で、この到達点って一体何なんだろう?著者の言いたいのは「こうありたいと思う自分」とか「こうありたい自分の生き方」的なものなのかな?実は僕もこのミッションステートメントを作ってみたし、今でも見返すのだが、見返す度に首をかしげて「ほんまかな?」と思ってしまう。(笑)
どうも著者は人生を一本の線の様にイメージしている節がある。マラソンのようにスタートがあり、ゴールが決められていればそこに向かって一歩一歩前進することで人生の意義が生まれる。
確かにマラソンはそうだ。ゴールがあるから走れる。確かにそのために次の一歩を苦しくても出す。そしてゴールに到達すると達成感に浸る。非常に効率的な行為だ。
でも、人生ってそうか?自分でも知らない間に勝手にスタートしてて、なんだか分からないコースを彷徨い、自分の意志とは異なるゴールが待っていて、下手したらゴールしたことさえ知らずに終わりが来る。
だから僕は「人生」という側面において、青写真なんかあるわけがないし、ミッションステートメントも作るのはいいがほぼ毎日変わってもおかしくないものだと信じて疑わない。
マラソンが点から点への線なら、人生は唐突に始まる線が、様々な予測不可能な点をつなぎ、最後に別けの分からない形になって、唐突に線が消えるというものだと思う。
これが仕事におけるプロジェクトなら話は別。著者の言うミッションや目標設定はとても大事だし、点から点への線を考えることが一つの基本なのに変わりはない。そこに効率性が物を言うのは当たり前だ。
人生においては、この一瞬一瞬が点であり、後ろを振り返った時に線になっている。その線は蛇行し、子供の落書きみたいになっている。それが人生の在り方で、そこに何かの意義があるかと聞かれたら、何にもないよ。子供落書きと一緒だよ。
でも、子供は落書きを書くことに意義を感じている。プロセスの問題だ。プロセスそのものが一つの意義とも言える。
だから、このミッションステートメント、考えて書くワークをするのはいいと思うけど、それがすべてだと思うのは間違いで、ほぼ毎日見返して更新する必要がある。そういう意味でも青写真にもセンターにもなり得ない。
仮に僕がミッションステートメントを一つのセンターとするなら、それは道徳や倫理観の有無なんじゃないかなと思う。でもそれはEndではないよね。一つのプラットフォームでしかない。そのプラットフォームを考えるという意味でミッションステートメントを書くのなら話は分かりやすいんだけど。
Life is the dancer and I am the dance.