ボンヤリズム

Life is the dancer and I am the dance.

【仏教】大愚和尚の語る愛語  大愚和尚動画より

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大愚和尚のお話は好きなんだけど、動画のタイトルの俗っぽさが最近増している。和尚さん自身もビジネスマンであるようだし、制作されている担当者も、観られてこそ意味のある動画だから、プロとして観られる努力の結果なのか。

 

それでいての「愛語」の話かぁ。(笑)

 

このタイトルが、大愚和尚の意図するところにどれほど愛語的なのかは、観る人の判断に任せるしかないかな。

 

愛語という言葉は道元禅師の書物の中に出てくるようで、大愚和尚が紹介している本文を別のブログからコピペしてみた。

 

 

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。

道元禅師の教え いのちのある限り 好んで愛語すべし | 東雲寺ブログより)

 

意訳はコピペさせていただいたブログにあるので読んでいただければと思う。

 

「赤ちゃんに対するように話す」とか「5歳の子供に話すように、見た目が50歳でも話す」とか、大愚和尚は動画の中でおっしゃっている。僕自身も愛語の感覚はとても大事だと思っているので、大愚和尚の言うことはよく分かる。実践はうまくできているか別として。

 

原則、意味は同じなのだが、個人的にはニュアンスの違う意味で愛語を使うように心がけている。それは、

 

話す時に、「自分」を別のところに置くこと。

 

である。しゃべっているのは自分じゃないか。聴いているのも自分じゃないか。それはそうなのだが、その間も「自分」を別のところに置くという感覚が僕には愛語の実践上、意識している。

 

仏教的に言うなら「無我」である。赤子に話しかけるようにという例から感じ取られるニュアンスとしては、相手は「我」の持ち主なので、その「我」の存在をしっかり受け止めてあげなさい。そのためには自分の「我」をそこに持ち出してはいけませんよ。という感じ。

 

僕には0歳児が実際に居るが、その子に話しかけるように人に話すなんて、なんかあまりにも現実味がなくて例としては良くわからない。

 

うちの0歳児は我欲の塊だ。そしてそれが正しい発達の段階だ。その点で赤子に話しかけるようにというのは、我欲の塊に話しかけるようにという意味にもとれる。

 

そう考えると、道元禅師の言う赤子というのは、まさに「我」のことをおっしゃられているのではないか?

 

気を付けないといけないのは、「あなたのためを思って言っているのよ。」みたいな、愛語のように見える強烈な我の押しつけである。愛語の本質を理解して実践するには、「自分」をどこかに置き忘れる能力が必要そうだ。

 

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